自分史(少年時代編)
満州の想い出
はじめに
2005年8月に脳梗塞で倒れ、ほとんど無傷で快復したものの再発の可能性も
危惧されている現在(2006年3月時点)、少年時代の特異な体験を是非書き残し
たいと思い立ち、ここに自分史(少年時代編)として拙文
を綴る次第です。薄れつつある記憶を呼び起こし、また今は亡き両親や親戚
など当時「大人」であった人たちから聞いた想い出話を記憶の底から呼び戻しつつ、
ジグソーパズルを埋めるような作業を繰り返して、この拙文を仕上げました。
下に旧満州と現中国、日本との関係図ならびに旧満州国地図を示します。

私は満州(現在の中国東北部)生まれの満州育ちであり、純粋の「満州っ子」です。、満州はまさに
私の心の故郷であり、安らぎの地なのです。現在でも折に触れて想い出されるのは、
あの荒涼たる大地、厳寒の氷原、見渡す限りの地平線などです。そこで
過ごした終戦時(昭和20年=1945年)までの10年余りは、多感な少年時代でもあり、私の思想形成にも多大
な影響を与えました。
その典型的な例が、満州人がよく使う『没法子(メイファーズ)』
という言葉です。これは直訳すれば「方法がない・仕方がない」ですが、その根底には仏教的な諦観が横た
わっていると思います。私の独断と偏見が許されるならば、これは「なるようにしかならない=運命には逆らえない」
と解釈され、「無理をしないで、あるがままに人生を生きる」という考え方だと思います。私自身もそのような
生き方をして来ました。私が、少し「茫洋」として物事にこだわらないように見えると言われるのは、その所為かも知れません。
終戦当時小学生であった私たちの年代も、はや古希を過ぎる年齢と
なり、想えば満州も遠くなりにけりの感慨を禁じ得ません。終戦から60年
以上経った今、細事にわたる記憶も断片的に、しかもマダラ摸様に薄れて
きています。
私が生まれたのは奉天(現在のシンヨウ)の市外ですが、父が仕事
(商社の出先機関で軍馬の飼料となる高梁[コウリャン]、粟、大豆、
トウモロコシなどの調達)の関係上、満州の僻地に出張している間、
母と私はそのテリトリーに近い市街地に落着いて父の帰りを待つと
いう生活を続けていました。ちなみに、私の下の子は幼くして夭折したと両親に
聞いていますので、兄弟はなく私は一人っ子でした。
想い出は住んでいた市街地にリンクして残っていますので、その市街地ごとに
綴っていきたいと思います。その主な市街地は【満州里(マンチュリ)】、
【チチハル】、【トウナン】、【新京(シンキョウ=現在の長春)】の4ヶ所ですので、この順番に少しずつ記憶を辿っ
て行きます
この拙文では、内容を視覚的にも理解を深めて頂くため、旧南満州鉄道に勤務された西島武郎画伯の画集に納められている満州のスケッチ画を
数葉拝借し、転載しましたことをここでお断り申し上げます。
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順番に読んで頂ける方は下の【満州里】からお入りください。