不受不施派のこと


 日蓮宗の一派に不受不施派という教団があります。不受布施とは簡単に説明すると日蓮宗以外の者から施しを受けず(不受)、日蓮宗以外の僧侶に施しをしない(不施)ということです。不受不施派日蓮宗の伝統的教義ありますが、封建制度のもとではこの教義は為政者にとっては極めて扱いの厄介なものとなってまいりました。
 室町時代に一度大きな問題として提示されましたが、歴史の表舞台に再び登場してきたとき、それは反封建的思想を含む危険宗教としてキリスト教とともに幕府禁制となりました。寛文5(1665)年のことです。
 以来明治9(1876)年及び同15(1882)年の公許にいたるまで、実に210年以上にわたって不受不施派教団は独自のネットワークを張り巡らせながら、地下秘密教団として信仰を守り続けてきたのです。
 そもそも不受不施派問題の端緒は、関白豊臣秀吉による亡き母大政所の法要への出仕問題でした。ここから日蓮宗は仏法為本と王法為本の二つの立場に分かれ、激しく論争するようになりました。上京妙覚寺日奥・池上本門寺日樹が不受布施側の代表として受不施側を批判しました。受不施側はやがて受施となり、この論争は江戸市民の注目の的でもあったようです。結果幕府閣僚に繋がりの強かった日乾・日遠両師の働きかけにより、受施側の全面的な勝利となり、不受不施派は禁制として弾圧されることのなります。強力な支配体制を引いた為政者にとっても宗教問題は悩みの種だったのでしょう。
 しかしながら不受不施派の教義は幕藩体制の支配イデオロギーを根幹から揺るがすものである以上、不受布施信仰はそのまま民衆闘争として位置づけることも出来ます。また禁制下、彼らは内信組織と呼ばれる組織を立ち上げ、厳しい弾圧をかいくぐっていきますが、やがて社会経済の変化から内信組織も変化が見られてきます。不受布施派教団の展開を考えるとき、政治思想史や社会経済史の立場からアプローチするとまた違った姿が見えてきます。

 


備前不受布施教団の内信組織の展開についての一考察

目 次
第1章 岡山藩の宗教政策
第2章 不受不施派の内信組織の展開
第3章 不受不施派の再興運動